それは侍の刀と同じ

判決が出た。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081210-OYT1T00896.htm
責任関係がハッキリしたのは、心からすっとした。


算定額が低すぎるし、……それで、チェンバロが還ってくるわけではないのだが。


自分は、まだ子供の時代に、ヴァイオリンとピアノをやっていた。
大人になってからは、何度か触った程度だが、それでもあの頃の感動と心は忘れていない。


一般的に、そして普遍的に人々が触れる楽器と言えばピアノなのだろう。
学校や公民館においてあるようなピアノは、頑丈で質は悪くないが、もともと大勢の人が触るし、管理状況も良くないので個性は出にくい。
最低限の調律ができると、どのピアノも同じに聞こえてしまう。
なかなか難しい。
それに比べると、ヴァイオリンは素直だ。
1万円以下の中国の工場で作られる大量生産品のオモチャみたいなものを除けば、基本的にヴァイオリンは一つ一つが手作業で作られる工芸品だ。
比べれば一目瞭然。
同じ年の同じ工房の、同じ型番であっても一つ一つがまったく異なる音色を奏でる。


だから、ヴァイオリニストは一つのヴァイオリンを育て続ける。
ヴァイオリニストの腕はヴァイオリンに沿って行き、ヴァイオリンはヴァイオリニストの個性を受けて変化していく。
大切に、大切に。
楽器と「連れ添う」なんて言葉を使うのは当然だ。子供や恋人のような存在なのだ。


チェンバロも同じだ。
ちなみに、僕は楽器をやっていた頃からチェンバロではなくハープシコードと呼んでいたので、どちらかと言うとそちらのほうがイメージがつきやすい。
近年、クラシックを良く聞くようになってからはチェンバロで慣れたが。
チェンバロは難しい楽器だ。
そしてその性質はヴァイオリンに近い。
長年連れ添った楽器が、どれだけ大切なものか。わからない演奏者がいるだろうか。
もしも、わからないのであれば、その人は楽器に関わるべきではない、いや芸術全般に関わるべきではない。
人には分相応というものがあるのだ。